静かな体育館。ステージの電気だけが点灯されていて、そこに私は一人立つ。
普通の制服、普通の雰囲気、普通の私。
台本片手に天井を見上げ、すっと一度空気を吸い、はーっと大きく吐く。
頭に浮かぶセリフ、役のイメージ、演技中の緊迫した空気。
しっかりと目を開き、瞳に強き思いを宿らせて、私は口を開き、言葉を放つ。
今、この時は、私は私であり、私は私ではない。
きっとずっと輝いて、誰かに何かを残したい。
それが私の願いであり、それが私の気持ちだから。
――――――――――――――――――――――
誰かに感動を与えるために
――――――――――――――――――――――
ある日の放課後。
授業も終わり、いつものように演劇部の部室に来てみたら、パイプイスに座ってじっと紙を見ている人がいた。
この演劇部の部長をしている同学年の女子生徒。いつも最初に部室に来てる。
「何を見てるの?」
後ろから声をかけつつ、その部長が見ている紙を覗き込んでみた。
女勇士、王様、妃、悪い魔女、村人A、村人B、……。書かれているのは役柄の名前ばかり。
「これ、次の演劇の配役?」
「うん。ほら、この前の話し合いで演じる劇の内容は決まったでしょ? だから配役考えてるの」
人差し指と中指で挟んだシャーペンを器用にくるくると回しながら答える部長。
有限の人数の中で選び、それ自体で劇の良し悪しを左右することすらある事柄。それが配役。
はっきり言ってしまえば、学校の演劇部の人員なんてたかが知れてる。それに関してはこの麻帆良中等部もしかり。
それでも熱意のある生徒が集まっているおかげか、今までの劇はすばらしい出来が続いた。
「部長が独断で決めちゃっていいの?」
「何言ってんの。今日話し合いすんの。でも、私なりに誰が適任か決めておく必要あると思って。仮にも部長だし」
そう言ってから、また部長は真剣に役柄の書かれた紙を凝視した。こういう熱い思いを見込まれて、彼女は部長に推薦された。今思えば、これこそ適任だと私は思う。
役柄の紙をじっと睨みつけている部長を見て小さく微笑みながら、私は近くのパイプイスに腰掛けた。
その途端、つい今しがたまで紙を睨みつけていた部長が勢いよくこちらを振り向いた。そのあまりの速さが少し怖いほど。
「ど、どうしたの?」
私はちょっと驚いたような、引いたような感じで苦笑いを浮かべて問い掛ける。
けれど返事は来ないで、じっと私を見つめる部長。その目がまたさらに怖かったりする。
「……うん、決まり」
今度はニヤリと笑い、二度三度と頭を上下を振り出す。なんか、ちょっと変人とか思った私って酷いだろうか。
何が決まりなのかと考えようとした直後に、ずびしっと効果音が目に見えそうな勢いで部長が私を指差す。
「夏美、あんたが主役ね」
「……………へ?」
/////////////////
横暴という言葉をご存知だろうか。
試しに辞書を引いてみた。
【横暴:権力や腕力にまかせて無法・乱暴な行いをすること。また、そのさま。】だそうで。
私は今日、その横暴の被害にあったわけで。
配役の話し合いで、部長が主役には私を推薦すると熱く語りだした。
私はもちろん断固反対。私以外に主役に相応しい部員はたくさんいるのだから。
それでも部長は引き下がらない。その熱弁することや十五分。まるで路上で車の上に立って『これからの日本を変えていく!』とか熱弁をしているどこかの政治家を思わせる。いや、あの熱さはそれをも凌ぐのかもしれない。
そして熱弁は同意を呼び寄せる。ましてや中学生ともなるとなおのこと。
ある種の洗脳、マインドコントロールに近い。部長の熱弁が終わった頃には皆が頷いていた。
その後の多数決。結果は歴然。
『集団において、多数決は唯一絶対なんだよ』
不敵な笑みを浮かべながら言い放った部長の言葉を、おそらく一生忘れないと思う。
覆らない目の前の結果。自分の役柄は、主役の女勇士。
ため息が出る。まさか主役をやらされるなんて。しかも女勇士…。
「こういうのって、普通美形がやるもんじゃないの…?」
自室で台本製作担当の部員から渡された今回の劇の台本をぱらぱらとめくりながらポツリと独り言。
台本の内容はありきたり。ある国の王様が大事にしていた国の宝を悪い魔女に盗まれてしまう。それを取り返すため、 一人の女勇士が立ち上がり、悪い魔女からその国の宝を取り返す、なんていう小学生がしそうな話。
そう、小学生がしそうな話だからこそ、演じる人たちの力が問われる。
改めて台本をぱらぱらとめくり、女勇士の一番最初のセリフを見てみる。
「『御触れを見させていただきました。王様、私がその悪い魔女から、国の宝を取り返してみせましょう』、登場して第一声がこれなんだ……」
なんていうか、もう少し物語の前振りみたいなものがあるんじゃないのだろうか、こういう内容のものは。
けれど話の内容自体は話し合いで決めたこと。台本製作担当の部員達に文句を言っても仕方がない。もし変だと思ったら、練習中に指摘が入るだろう。台詞もまた、台本製作担当の部員の仕事だから。
とりあえず部長に言われたことは、明後日までに役を演じる部員は自分の台詞を完璧に覚えてくる、ということ。
次の劇までの日にちは思ったよりも長くはない。出来る限り劇の練習に時間を費やしたいのだ。
それゆえに全体の作業に関しての予定は『最初から最後まで急ピッチ』。
体力がないなんていう寝言は言わせないとか、演劇部という肩書きに誇りを持って取り組めとか、演劇のためなら命だってかけれるって断言できるような心を持てとか、もはや部活の域を超えてそう。
結果的に部員全員に火をつけることはできた。今年の演劇部は一味違うと、口癖のように顧問の先生が呟いているのをなんとなしに思い出した。
「だけど私が主役って、やっぱりなぁ……」
正直な話、自信がない。理由は一つ、設定的に主役が美形だから。
自分は至って普通で、そばかすもある。美形にはほど遠い外見。
だから自信がない。自然と重々しいため息が出る。
「はぁ…、やるしかないよね……」
誰に言うわけでもなくポツリと呟き、もう一度台本を見る。
役・女勇士の下に書かれている自分の名前が、どこか少し憎く思えた。
/////////////////
「はい、ストップストップ」
空き教室での劇の稽古中、部長が制止をかける。
役を演じている生徒も、周りでその劇を眺めていた他の部員も、全員の動きが止まり視線が部長に集中する。
劇の内容、配役、作業予定などが決まった日からおよそ十日が経った。
当初の発言通り、劇で使う備品や張りぼての壁などの作成は急ピッチで進められ、現段階でもう八割方は完成。
そのおかげで、今もこうして劇の稽古をほとんどの部員が見ていられるという状況になっていた。
しかし、自分に問題が生まれた。
「夏美、台詞間違えてる。それに、台詞も動きもなんかちょっと硬いよ」
筒状に丸めた台本を片手に、部長が苦笑いを浮かべてそういってきた。
自分でも判ってる。台詞が唐突に頭の中から消えてしまった。全体的に動きが硬いのも。
「ごめん……、もう一回やらせて」
そうは言うが、実はこれでテイク15を超えている。
きっとこのまま続けても同じことの繰り返し。土壇場で台詞がとんで、頭の中が真っ白になるだけ。
だけど、それでもやり直したいと心が焦る。
必死な表情の私をじっと見つめている部長。
手に持っている丸めた台本で自身の頭を軽く二度叩き、小さくため息をつく。
「みんな、今から二十分間休憩ね」
出た言葉は練習の続行ではなく中断を意味する言葉。
やっと休憩だと喜びの声を上げる部員達。けれど、私は悔しかった。
部長は今の私に練習を続けさせても無意味なのだと理解したからこそ、今ここで休憩と言ったのだから。
俯いたまま立ち尽くしている私に、誰かがそっと歩み寄ってきているのを感じた。
そして間近に近づきたので、私は顔を上げようとした。その瞬間、ぽかっと頭を叩かれた。
そこにいたのは部長。相変わらず手には筒状に丸めた台本を手にして笑っている。
「夏美、ちょっち付いて来て」
唐突にそう私に告げて、くるりと体を反転させて教室を出て行った。
いきなり付いて来いと言われても、なんてグチを言う暇を与えてくれないのだから、仕方なしに付いて行くしかなかった。
来たのは屋上。いつもは数人の生徒がいるこの屋上も、放課後にもなると誰もいない。今いるのは、私と部長だけ。
空は夕方のために朱色に染まり、うっすらと月が浮かんでいる。そろそろ夜か、そんなことを思いつつ息を吐く。
屋上の手すりに体を預け、グラウンドを眺めている部長。いまだに手には丸められた台本があった。
「こんなとこにつれてきて、なんか話でもあるの?」
私は訝しげな表情をしつつ、部長の横に歩み寄り、同じように手すりに体を預けた。
隣に部長はおもむろに手に持っていた台本をぱらぱらとめくり、ずいっと私の前に差し出してきた。
「ここ、ちょっと演じてみ」
部長の言葉に少し眉を顰めつつも、開かれたページを眺めてみる。
劇の終盤、悪い魔女を懲らしめて国の宝を取り返した女勇士が、お城の王様に宝を返して最後に栄誉を与えられるとかいう場面。
どうして演じてみる必要があるのか、そんな疑問を含めた目で一度部長を見据えたが、部長はただ笑ってこちらを見ているだけ。真意がつかめない。私は一度だけため息をつき、そのシーンを部長の前で演じることにした。
普通の制服、普通の雰囲気、普通の私。
台本片手に天井を見上げ、すっと一度空気を吸い、はーっと大きく吐く。
頭に浮かぶセリフ、役のイメージ、演技中の緊迫した空気。
しっかりと目を開き、瞳に強き思いを宿らせて、私は口を開き、言葉を放つ。
今、この時は、私は私であり、私は私ではない。
きっとずっと輝いて、誰かに何かを残したい。
それが私の願いであり、それが私の気持ちだから。
――――――――――――――――――――――
誰かに感動を与えるために
――――――――――――――――――――――
ある日の放課後。
授業も終わり、いつものように演劇部の部室に来てみたら、パイプイスに座ってじっと紙を見ている人がいた。
この演劇部の部長をしている同学年の女子生徒。いつも最初に部室に来てる。
「何を見てるの?」
後ろから声をかけつつ、その部長が見ている紙を覗き込んでみた。
女勇士、王様、妃、悪い魔女、村人A、村人B、……。書かれているのは役柄の名前ばかり。
「これ、次の演劇の配役?」
「うん。ほら、この前の話し合いで演じる劇の内容は決まったでしょ? だから配役考えてるの」
人差し指と中指で挟んだシャーペンを器用にくるくると回しながら答える部長。
有限の人数の中で選び、それ自体で劇の良し悪しを左右することすらある事柄。それが配役。
はっきり言ってしまえば、学校の演劇部の人員なんてたかが知れてる。それに関してはこの麻帆良中等部もしかり。
それでも熱意のある生徒が集まっているおかげか、今までの劇はすばらしい出来が続いた。
「部長が独断で決めちゃっていいの?」
「何言ってんの。今日話し合いすんの。でも、私なりに誰が適任か決めておく必要あると思って。仮にも部長だし」
そう言ってから、また部長は真剣に役柄の書かれた紙を凝視した。こういう熱い思いを見込まれて、彼女は部長に推薦された。今思えば、これこそ適任だと私は思う。
役柄の紙をじっと睨みつけている部長を見て小さく微笑みながら、私は近くのパイプイスに腰掛けた。
その途端、つい今しがたまで紙を睨みつけていた部長が勢いよくこちらを振り向いた。そのあまりの速さが少し怖いほど。
「ど、どうしたの?」
私はちょっと驚いたような、引いたような感じで苦笑いを浮かべて問い掛ける。
けれど返事は来ないで、じっと私を見つめる部長。その目がまたさらに怖かったりする。
「……うん、決まり」
今度はニヤリと笑い、二度三度と頭を上下を振り出す。なんか、ちょっと変人とか思った私って酷いだろうか。
何が決まりなのかと考えようとした直後に、ずびしっと効果音が目に見えそうな勢いで部長が私を指差す。
「夏美、あんたが主役ね」
「……………へ?」
/////////////////
横暴という言葉をご存知だろうか。
試しに辞書を引いてみた。
【横暴:権力や腕力にまかせて無法・乱暴な行いをすること。また、そのさま。】だそうで。
私は今日、その横暴の被害にあったわけで。
配役の話し合いで、部長が主役には私を推薦すると熱く語りだした。
私はもちろん断固反対。私以外に主役に相応しい部員はたくさんいるのだから。
それでも部長は引き下がらない。その熱弁することや十五分。まるで路上で車の上に立って『これからの日本を変えていく!』とか熱弁をしているどこかの政治家を思わせる。いや、あの熱さはそれをも凌ぐのかもしれない。
そして熱弁は同意を呼び寄せる。ましてや中学生ともなるとなおのこと。
ある種の洗脳、マインドコントロールに近い。部長の熱弁が終わった頃には皆が頷いていた。
その後の多数決。結果は歴然。
『集団において、多数決は唯一絶対なんだよ』
不敵な笑みを浮かべながら言い放った部長の言葉を、おそらく一生忘れないと思う。
覆らない目の前の結果。自分の役柄は、主役の女勇士。
ため息が出る。まさか主役をやらされるなんて。しかも女勇士…。
「こういうのって、普通美形がやるもんじゃないの…?」
自室で台本製作担当の部員から渡された今回の劇の台本をぱらぱらとめくりながらポツリと独り言。
台本の内容はありきたり。ある国の王様が大事にしていた国の宝を悪い魔女に盗まれてしまう。それを取り返すため、 一人の女勇士が立ち上がり、悪い魔女からその国の宝を取り返す、なんていう小学生がしそうな話。
そう、小学生がしそうな話だからこそ、演じる人たちの力が問われる。
改めて台本をぱらぱらとめくり、女勇士の一番最初のセリフを見てみる。
「『御触れを見させていただきました。王様、私がその悪い魔女から、国の宝を取り返してみせましょう』、登場して第一声がこれなんだ……」
なんていうか、もう少し物語の前振りみたいなものがあるんじゃないのだろうか、こういう内容のものは。
けれど話の内容自体は話し合いで決めたこと。台本製作担当の部員達に文句を言っても仕方がない。もし変だと思ったら、練習中に指摘が入るだろう。台詞もまた、台本製作担当の部員の仕事だから。
とりあえず部長に言われたことは、明後日までに役を演じる部員は自分の台詞を完璧に覚えてくる、ということ。
次の劇までの日にちは思ったよりも長くはない。出来る限り劇の練習に時間を費やしたいのだ。
それゆえに全体の作業に関しての予定は『最初から最後まで急ピッチ』。
体力がないなんていう寝言は言わせないとか、演劇部という肩書きに誇りを持って取り組めとか、演劇のためなら命だってかけれるって断言できるような心を持てとか、もはや部活の域を超えてそう。
結果的に部員全員に火をつけることはできた。今年の演劇部は一味違うと、口癖のように顧問の先生が呟いているのをなんとなしに思い出した。
「だけど私が主役って、やっぱりなぁ……」
正直な話、自信がない。理由は一つ、設定的に主役が美形だから。
自分は至って普通で、そばかすもある。美形にはほど遠い外見。
だから自信がない。自然と重々しいため息が出る。
「はぁ…、やるしかないよね……」
誰に言うわけでもなくポツリと呟き、もう一度台本を見る。
役・女勇士の下に書かれている自分の名前が、どこか少し憎く思えた。
/////////////////
「はい、ストップストップ」
空き教室での劇の稽古中、部長が制止をかける。
役を演じている生徒も、周りでその劇を眺めていた他の部員も、全員の動きが止まり視線が部長に集中する。
劇の内容、配役、作業予定などが決まった日からおよそ十日が経った。
当初の発言通り、劇で使う備品や張りぼての壁などの作成は急ピッチで進められ、現段階でもう八割方は完成。
そのおかげで、今もこうして劇の稽古をほとんどの部員が見ていられるという状況になっていた。
しかし、自分に問題が生まれた。
「夏美、台詞間違えてる。それに、台詞も動きもなんかちょっと硬いよ」
筒状に丸めた台本を片手に、部長が苦笑いを浮かべてそういってきた。
自分でも判ってる。台詞が唐突に頭の中から消えてしまった。全体的に動きが硬いのも。
「ごめん……、もう一回やらせて」
そうは言うが、実はこれでテイク15を超えている。
きっとこのまま続けても同じことの繰り返し。土壇場で台詞がとんで、頭の中が真っ白になるだけ。
だけど、それでもやり直したいと心が焦る。
必死な表情の私をじっと見つめている部長。
手に持っている丸めた台本で自身の頭を軽く二度叩き、小さくため息をつく。
「みんな、今から二十分間休憩ね」
出た言葉は練習の続行ではなく中断を意味する言葉。
やっと休憩だと喜びの声を上げる部員達。けれど、私は悔しかった。
部長は今の私に練習を続けさせても無意味なのだと理解したからこそ、今ここで休憩と言ったのだから。
俯いたまま立ち尽くしている私に、誰かがそっと歩み寄ってきているのを感じた。
そして間近に近づきたので、私は顔を上げようとした。その瞬間、ぽかっと頭を叩かれた。
そこにいたのは部長。相変わらず手には筒状に丸めた台本を手にして笑っている。
「夏美、ちょっち付いて来て」
唐突にそう私に告げて、くるりと体を反転させて教室を出て行った。
いきなり付いて来いと言われても、なんてグチを言う暇を与えてくれないのだから、仕方なしに付いて行くしかなかった。
来たのは屋上。いつもは数人の生徒がいるこの屋上も、放課後にもなると誰もいない。今いるのは、私と部長だけ。
空は夕方のために朱色に染まり、うっすらと月が浮かんでいる。そろそろ夜か、そんなことを思いつつ息を吐く。
屋上の手すりに体を預け、グラウンドを眺めている部長。いまだに手には丸められた台本があった。
「こんなとこにつれてきて、なんか話でもあるの?」
私は訝しげな表情をしつつ、部長の横に歩み寄り、同じように手すりに体を預けた。
隣に部長はおもむろに手に持っていた台本をぱらぱらとめくり、ずいっと私の前に差し出してきた。
「ここ、ちょっと演じてみ」
部長の言葉に少し眉を顰めつつも、開かれたページを眺めてみる。
劇の終盤、悪い魔女を懲らしめて国の宝を取り返した女勇士が、お城の王様に宝を返して最後に栄誉を与えられるとかいう場面。
どうして演じてみる必要があるのか、そんな疑問を含めた目で一度部長を見据えたが、部長はただ笑ってこちらを見ているだけ。真意がつかめない。私は一度だけため息をつき、そのシーンを部長の前で演じることにした。
台本を見ながら演じたために台詞の間違いはなかった。けれど、動きはやはり硬く、演劇部員としてみれば上手いと褒めるには無理がある。私って、こんなに演技下手だったのかな……。
「夏美、あんた演劇は好き?」
唐突に部長がそんなことを聞いてきた。さっきと同じ、笑顔で。
どんな理由でそんな質問をしてきたのかは判らなかった。だから、私は素直に答える他ない。
「好きだよ。大好き」
もちろん本心。私は演劇が好きだ。
私の答えを聞いて部長は二度ほど頷く。それから私の手から台本を取り、またそれをくるくると丸めた。
そしてその丸めた台本を私につきつけ、その直後に真剣な表情になる部長。
「夏美、今あんたが演劇をしてる理由ってなに?」
また出された質問。けれど、おそらく先ほどの質問とは何かが違う。理由が部長の表情。いつも笑っているはずの部長が、こんなにも真剣な表情をしているのは数えるほどしかなかったから。
だけど、私にとって演劇をしている理由はさっき言ったこと。
「理由って、私は演劇が好きだから…」
「好きで演技をしてる人は、失敗続きでもあんな悲しい顔ばっかりはしないよ」
部長の言葉が棘のようになって胸に刺さる。ビクリと体が反応して、胸に痛みをはっきりと感じた。
練習で失敗が続いた時、私は一体どんな表情をしていたんだ。彼女がこう言うほど、私の表情は酷かったのか。
だけど、演劇をしている理由は『演劇が好きだから』。これは間違っていない。
間違っていないのに、部長の言葉が頭にあるせいで、何を言っていいかわからなくなってしまった。
すると部長は苦笑をして、丸めた台本で肩を二度叩いた。
「誰しもさ、好きになった理由ってものがあると思うんだ。その理由があって、やりたいと思って、やり始めてから好きになって。そういう流れなんだと思う。私はね、今演劇をしている理由って、一番最初の好きになった理由と一緒なんだと思う。少なくとも私はそう。今の夏美は、その理由を忘れてるんじゃないかな」
視線を朱色の空に向けたまま淡々と語る部長。その顔は、いつもよりもなんだかずっと大人っぽい。
部長の話を聞いて、私は余計に判らなくなった。それじゃぁ、私はどうして演劇をしているの?
「……私が演技を上手く出来ない原因は、それだってこと?」
何故だかかすかに声が震える。それでも私は、部長にそう問いかけた。
部長は空に向けていた視線をゆっくり下ろし、私のほうに向けて小さく微笑む。
「何のために演技をするのか、よく考えてみな」
そう答えると、部長は私の横を通って校舎へと入っていった。
何のために演技をするのか。なんだか、少し哲学な感じがするフレーズ。
そのせいなのか、それともまだ頭が混乱しているのか。私には、答えを出すことができなかった。
/////////////////
演劇の本番まで一週間を切った。
あれから何度も何度も家で台詞を覚えなおし、何度も何度も部活の練習もした。
それなのに、やっぱり上手くいかない。台詞を忘れてつまずいたり、かんでしまったり、動きがやっぱり硬かったり。
いくら練習しても、どんなに頑張っても、修正がきかない。改善されない。
ついこの前、部員達から配役の変更をしたほうがいいんじゃないかという提案があった。
今からでも遅くない、村上がこんなに失敗するなら他の人がしたほうがいい。そう言っていた。
実際、私自身もそうしたほうがいいのかもしれない、と考えていた。情けない話ではあるのだけれど、そのほうがこの劇も成功する可能性が高い。今の自分がこんななのだから。
けれど、部長が断固としてそれを認めなかった。首を縦に振ることは決してなかった。
みんなで決めたことなのだからこのままで行くと断言していた。それも何故か笑顔で。
だけど、どんなにどんなに頑張っても、演技はよくならない。むしろ悪くなっている。
主役を務めるというプレッシャーなのか、それとも上手く演技できない焦りなのか。
たとえ何が理由であっても、今演技を上手くできない。そんな事実が突きつけられる。
あと一週間もないのに。そう思うと危機感と悔しさが一気に押し寄せてきて、私は部屋で一人泣いてしまった。
「どうして……どうして上手くできないのかなぁ……」
ひたすら泣いたせいで目は真っ赤に腫れていた。
手に持っていたタオルは涙で湿って、まだうっすら目元に涙が浮かぶ。
それをまたタオルで強引に拭って、だけどまた目元に涙が浮かんで。
頭の中には、前に部長に言われた言葉が残っていた。
『あんたが演劇をしている理由ってなに?』
一番最初に私が演劇を始めようと思った理由、一生懸命思い出そうとしても出てこない。
いつそう思ったのか、どうしてそう思ったのか、何を見てそう思ったのか。何も思い出せない。
「私が演劇をしてる理由……」
うわ言のようにぽつりと独り言が漏れる。
そんなことをしても思い出せるわけではないのに、もう一度ぽつりと独り言。
その時、コンコンと扉の叩く音が静かな部屋に響いた。
「夏美姉ちゃん、なんや姉ちゃん宛てに届けもん来とるで」
それから遅れて聞こえる少年の声。少し前から一緒に住むようになった小太郎くんの声だった。
私はすぐに涙を拭って立ち上がり、部屋の扉を開けた。
小太郎くんは手に小さめのダンボールと一通の手紙をもっていつもの元気な笑顔でそこに立っていた。
「ありがと、小太郎くん」
無理くり笑顔を作ってみる。バレてないかな、バレてないよね。小太郎くんって意外と鈍感だし。
ダンボールと手紙を受け取って差出人を見てみる。やっぱり、お母さんだ。
私宛てに届け物が届くとしたら親ぐらい。一度だけ叔父からミカンが届いたことがあったりもした。
「ええって。ほな俺、ちづ姉に頼まれとったもん買うてくるわ」
小太郎くんはそう言うとすぐに走って部屋を出て行った。
ああいう姿を見てると、何故だか落ち込んでた気持ちも少しばかりやわらぐ。
小さく笑ってから扉を閉め、机の上にそのダンボールを置いて、先に手紙を開いた。
久しぶりに見る母親のクセのある字。小さめの文字で、でもしっかりとした文字。
元気にやってるかとか、食事や睡眠はしっかりとってるかとか、勉強はできてるかとか。その他諸々のいつもと変わらない内容だった。毎回手紙が届くたびに、内容を見るたびに、相変わらずだなと再認識する。
そのまま二枚目の便箋を見てみると、少し気になる文章があった。
『懐かしいものが出てきました。あの時の文化祭の劇のパンフレットです。他の雑貨と一緒にダンボールに入れて送ります』
首をかしげる。あの時の文化祭? 劇のパンフレット? 一体何のことだろう。
気になった私はすぐに行動に移そうと思い、手に持っていた手紙を机に置いて、ダンボールに張ってあるガムテープをびりびりっとはがして中を確認した。
いつものようなちょっとした雑貨があるのと一緒に、底のほうに見えた一冊の小冊子。
雑貨をのけて、その小冊子を手にとって表紙を見た。書かれていたのは、演劇の文字。
手作りという雰囲気がひしひしと感じられ、酷く色褪せてある。角のほうは折れ曲がったりして、状態はあまり良いとはいえない。
なんだろう、見たことがある。それが一番最初に思ったこと。
自然と手が小冊子をぱらぱらとめくる。目を通して判った、高校の演劇部の文化祭のパンフレットだ。
もう一ページめくってみたら、劇の内容と配役が紹介されていた。
劇は『不思議の国のアリス』。もちろん主役は女子生徒。
その女子生徒の写真がその小冊子に印刷されていた。とても可愛いとはいえないけれど、普通よりも少し可愛いだろうと思える顔立ち。
兄弟姉妹のいない私の家にどうしてこんなものが。不思議に思いながらぱらぱらとめくり、一番最後のページで手が止まった。
何もない単なる無地のページ…だったページ。
何も印刷のされていないそのページに、文字が書かれていた。
古いせいもあるのか、文字はかなり汚く、ひどく読みづらい。
それでもどうにか一文字一文字を読んでいく。
『アリスのおねーちゃんがすごくきれーだった。すごくすごく、すごいとおもった。おかあさんにきいたら、そうおもうのをカンドーっていうみたい。おしばいでひとがカンドーするってすごい。アタシも、あんなふーにだれかをカンドーさせたいとおもった。アタシもおしばいをしよーかなー。 むらかみ なつみ』
書かれていたのは私が書いた劇の感想。この高校の演劇部のお芝居を見た感想。
その文字を全部読んだとき、私は思い出した。
まだ三つか四つかの時、近所の高校で文化祭があった。
わがまま言って両親に連れて行ってもらい、その文化祭の最後に見たのが演劇部の劇、『不思議の国のアリス』。
最初はつまんないと思ってた。退屈で退屈で仕方が無くて。
だけど、しばらく見ているうちにアリス役の人の演技に魅入って、最後には食い入るようにして舞台に視線を向けていた。普通の人がしている演技なのに、まるで本当のアリスのようで。
劇が終わった時には、私はすごく興奮してた。帰り道で両親に『アタシもおしばいする!』って何度も何度も言っていた。
「懐かしい……。こんなの、まだ残ってたんだ」
小さく笑いながら、最後のページに書かれている幼き頃の自分の感想を見て、ふっと何かが脳裏をよぎった。
部長の言葉がまた頭に響く。そしてそれと同時に、今までずっと思い出せなかったことがやっと判った。
そうか、これが私が演劇をする理由なんだ。
演劇が好きだから、それはきっと間違いじゃないんだと思う。だけど、それだけじゃない。
私が演劇をするもう一つの理由、それはなによりも、私の演技を見て誰かに感動してもらいたいから。
自分のためじゃなく、何よりも演技を見てくれている人達に感動してもらうために演技をすること。
舞台の上で自分を輝かせて、そんな自分を見て、一人でも誰かに感動してもらうこと。
それが、何より自分が演劇を始めた理由。自分が演劇を続けてきた理由。そして、これからも自分が演劇を続けていく理由。
そう、たとえ主役だろうと脇役だろうと、自分の演技を見て一人でも誰かが感動してくれたら、それだけできっと自分は満足できる。自分も幸せになれる。
部長の言うとおり、きっとそれを忘れていた。主役をやらされて焦ったり、上手く出来なくて悔やんだり、それは自分のことしか考えてないから。
劇をするのは自分のためではない。見に来てくれている人達のために、その人達に感動を与えるためにするのだ。
それをきっと忘れていた。だから今まで失敗していた。
「……私も、誰かに感動をあげることって出来るかな……」
誰かに問い掛けるわけでもなく、独り言を部屋に響かせる。
忘れていた懐かしき思い。懐かしき理由。懐かしき願い。
やっと思い出せた。私の大事な思い出を。私の大事な始まりを。
「……うん、私も見に来てくれてる人達を感動させたい」
私は最後にそう呟くと、手に持っていたパンフレットを机に置き、代わりに台本を手に取った。
今からでも遅くない。今、私に出来ることをやろう。
次の舞台のために、私達の演技を見に来てくれる人達のために。
/////////////////
観客席にはたくさんの人。
舞台には私よりも出番が早くやってきた部員が演技をしていた。
今日のためにみんな努力してきた。今まさに、その成果を見せている。
私も負けてはいられない。
衣装をしっかりと身に纏い、着心地を整える。
演劇用に作った張りぼての剣を携え、最後に帽子を被る。
ステージの袖で、自分の出番を待つ。
今日のためにしてきた努力は、きっとステージの上で私を輝かせてくれる。
私じゃない私になったその時、きっと私は輝いている。
そしてそんな私を見て、一人でも人を感動させてあげたい。
それが私の誇り、気持ち、願い。
「夏美、出番だよ!」
小声で部長が私に声をかける。
私はニコリと笑って一度頷き、一歩足を踏み出した。
さぁ行こう。ステージの上へ。輝く自分になるために。
誰かに感動の二文字を与えに。
「夏美、あんた演劇は好き?」
唐突に部長がそんなことを聞いてきた。さっきと同じ、笑顔で。
どんな理由でそんな質問をしてきたのかは判らなかった。だから、私は素直に答える他ない。
「好きだよ。大好き」
もちろん本心。私は演劇が好きだ。
私の答えを聞いて部長は二度ほど頷く。それから私の手から台本を取り、またそれをくるくると丸めた。
そしてその丸めた台本を私につきつけ、その直後に真剣な表情になる部長。
「夏美、今あんたが演劇をしてる理由ってなに?」
また出された質問。けれど、おそらく先ほどの質問とは何かが違う。理由が部長の表情。いつも笑っているはずの部長が、こんなにも真剣な表情をしているのは数えるほどしかなかったから。
だけど、私にとって演劇をしている理由はさっき言ったこと。
「理由って、私は演劇が好きだから…」
「好きで演技をしてる人は、失敗続きでもあんな悲しい顔ばっかりはしないよ」
部長の言葉が棘のようになって胸に刺さる。ビクリと体が反応して、胸に痛みをはっきりと感じた。
練習で失敗が続いた時、私は一体どんな表情をしていたんだ。彼女がこう言うほど、私の表情は酷かったのか。
だけど、演劇をしている理由は『演劇が好きだから』。これは間違っていない。
間違っていないのに、部長の言葉が頭にあるせいで、何を言っていいかわからなくなってしまった。
すると部長は苦笑をして、丸めた台本で肩を二度叩いた。
「誰しもさ、好きになった理由ってものがあると思うんだ。その理由があって、やりたいと思って、やり始めてから好きになって。そういう流れなんだと思う。私はね、今演劇をしている理由って、一番最初の好きになった理由と一緒なんだと思う。少なくとも私はそう。今の夏美は、その理由を忘れてるんじゃないかな」
視線を朱色の空に向けたまま淡々と語る部長。その顔は、いつもよりもなんだかずっと大人っぽい。
部長の話を聞いて、私は余計に判らなくなった。それじゃぁ、私はどうして演劇をしているの?
「……私が演技を上手く出来ない原因は、それだってこと?」
何故だかかすかに声が震える。それでも私は、部長にそう問いかけた。
部長は空に向けていた視線をゆっくり下ろし、私のほうに向けて小さく微笑む。
「何のために演技をするのか、よく考えてみな」
そう答えると、部長は私の横を通って校舎へと入っていった。
何のために演技をするのか。なんだか、少し哲学な感じがするフレーズ。
そのせいなのか、それともまだ頭が混乱しているのか。私には、答えを出すことができなかった。
/////////////////
演劇の本番まで一週間を切った。
あれから何度も何度も家で台詞を覚えなおし、何度も何度も部活の練習もした。
それなのに、やっぱり上手くいかない。台詞を忘れてつまずいたり、かんでしまったり、動きがやっぱり硬かったり。
いくら練習しても、どんなに頑張っても、修正がきかない。改善されない。
ついこの前、部員達から配役の変更をしたほうがいいんじゃないかという提案があった。
今からでも遅くない、村上がこんなに失敗するなら他の人がしたほうがいい。そう言っていた。
実際、私自身もそうしたほうがいいのかもしれない、と考えていた。情けない話ではあるのだけれど、そのほうがこの劇も成功する可能性が高い。今の自分がこんななのだから。
けれど、部長が断固としてそれを認めなかった。首を縦に振ることは決してなかった。
みんなで決めたことなのだからこのままで行くと断言していた。それも何故か笑顔で。
だけど、どんなにどんなに頑張っても、演技はよくならない。むしろ悪くなっている。
主役を務めるというプレッシャーなのか、それとも上手く演技できない焦りなのか。
たとえ何が理由であっても、今演技を上手くできない。そんな事実が突きつけられる。
あと一週間もないのに。そう思うと危機感と悔しさが一気に押し寄せてきて、私は部屋で一人泣いてしまった。
「どうして……どうして上手くできないのかなぁ……」
ひたすら泣いたせいで目は真っ赤に腫れていた。
手に持っていたタオルは涙で湿って、まだうっすら目元に涙が浮かぶ。
それをまたタオルで強引に拭って、だけどまた目元に涙が浮かんで。
頭の中には、前に部長に言われた言葉が残っていた。
『あんたが演劇をしている理由ってなに?』
一番最初に私が演劇を始めようと思った理由、一生懸命思い出そうとしても出てこない。
いつそう思ったのか、どうしてそう思ったのか、何を見てそう思ったのか。何も思い出せない。
「私が演劇をしてる理由……」
うわ言のようにぽつりと独り言が漏れる。
そんなことをしても思い出せるわけではないのに、もう一度ぽつりと独り言。
その時、コンコンと扉の叩く音が静かな部屋に響いた。
「夏美姉ちゃん、なんや姉ちゃん宛てに届けもん来とるで」
それから遅れて聞こえる少年の声。少し前から一緒に住むようになった小太郎くんの声だった。
私はすぐに涙を拭って立ち上がり、部屋の扉を開けた。
小太郎くんは手に小さめのダンボールと一通の手紙をもっていつもの元気な笑顔でそこに立っていた。
「ありがと、小太郎くん」
無理くり笑顔を作ってみる。バレてないかな、バレてないよね。小太郎くんって意外と鈍感だし。
ダンボールと手紙を受け取って差出人を見てみる。やっぱり、お母さんだ。
私宛てに届け物が届くとしたら親ぐらい。一度だけ叔父からミカンが届いたことがあったりもした。
「ええって。ほな俺、ちづ姉に頼まれとったもん買うてくるわ」
小太郎くんはそう言うとすぐに走って部屋を出て行った。
ああいう姿を見てると、何故だか落ち込んでた気持ちも少しばかりやわらぐ。
小さく笑ってから扉を閉め、机の上にそのダンボールを置いて、先に手紙を開いた。
久しぶりに見る母親のクセのある字。小さめの文字で、でもしっかりとした文字。
元気にやってるかとか、食事や睡眠はしっかりとってるかとか、勉強はできてるかとか。その他諸々のいつもと変わらない内容だった。毎回手紙が届くたびに、内容を見るたびに、相変わらずだなと再認識する。
そのまま二枚目の便箋を見てみると、少し気になる文章があった。
『懐かしいものが出てきました。あの時の文化祭の劇のパンフレットです。他の雑貨と一緒にダンボールに入れて送ります』
首をかしげる。あの時の文化祭? 劇のパンフレット? 一体何のことだろう。
気になった私はすぐに行動に移そうと思い、手に持っていた手紙を机に置いて、ダンボールに張ってあるガムテープをびりびりっとはがして中を確認した。
いつものようなちょっとした雑貨があるのと一緒に、底のほうに見えた一冊の小冊子。
雑貨をのけて、その小冊子を手にとって表紙を見た。書かれていたのは、演劇の文字。
手作りという雰囲気がひしひしと感じられ、酷く色褪せてある。角のほうは折れ曲がったりして、状態はあまり良いとはいえない。
なんだろう、見たことがある。それが一番最初に思ったこと。
自然と手が小冊子をぱらぱらとめくる。目を通して判った、高校の演劇部の文化祭のパンフレットだ。
もう一ページめくってみたら、劇の内容と配役が紹介されていた。
劇は『不思議の国のアリス』。もちろん主役は女子生徒。
その女子生徒の写真がその小冊子に印刷されていた。とても可愛いとはいえないけれど、普通よりも少し可愛いだろうと思える顔立ち。
兄弟姉妹のいない私の家にどうしてこんなものが。不思議に思いながらぱらぱらとめくり、一番最後のページで手が止まった。
何もない単なる無地のページ…だったページ。
何も印刷のされていないそのページに、文字が書かれていた。
古いせいもあるのか、文字はかなり汚く、ひどく読みづらい。
それでもどうにか一文字一文字を読んでいく。
『アリスのおねーちゃんがすごくきれーだった。すごくすごく、すごいとおもった。おかあさんにきいたら、そうおもうのをカンドーっていうみたい。おしばいでひとがカンドーするってすごい。アタシも、あんなふーにだれかをカンドーさせたいとおもった。アタシもおしばいをしよーかなー。 むらかみ なつみ』
書かれていたのは私が書いた劇の感想。この高校の演劇部のお芝居を見た感想。
その文字を全部読んだとき、私は思い出した。
まだ三つか四つかの時、近所の高校で文化祭があった。
わがまま言って両親に連れて行ってもらい、その文化祭の最後に見たのが演劇部の劇、『不思議の国のアリス』。
最初はつまんないと思ってた。退屈で退屈で仕方が無くて。
だけど、しばらく見ているうちにアリス役の人の演技に魅入って、最後には食い入るようにして舞台に視線を向けていた。普通の人がしている演技なのに、まるで本当のアリスのようで。
劇が終わった時には、私はすごく興奮してた。帰り道で両親に『アタシもおしばいする!』って何度も何度も言っていた。
「懐かしい……。こんなの、まだ残ってたんだ」
小さく笑いながら、最後のページに書かれている幼き頃の自分の感想を見て、ふっと何かが脳裏をよぎった。
部長の言葉がまた頭に響く。そしてそれと同時に、今までずっと思い出せなかったことがやっと判った。
そうか、これが私が演劇をする理由なんだ。
演劇が好きだから、それはきっと間違いじゃないんだと思う。だけど、それだけじゃない。
私が演劇をするもう一つの理由、それはなによりも、私の演技を見て誰かに感動してもらいたいから。
自分のためじゃなく、何よりも演技を見てくれている人達に感動してもらうために演技をすること。
舞台の上で自分を輝かせて、そんな自分を見て、一人でも誰かに感動してもらうこと。
それが、何より自分が演劇を始めた理由。自分が演劇を続けてきた理由。そして、これからも自分が演劇を続けていく理由。
そう、たとえ主役だろうと脇役だろうと、自分の演技を見て一人でも誰かが感動してくれたら、それだけできっと自分は満足できる。自分も幸せになれる。
部長の言うとおり、きっとそれを忘れていた。主役をやらされて焦ったり、上手く出来なくて悔やんだり、それは自分のことしか考えてないから。
劇をするのは自分のためではない。見に来てくれている人達のために、その人達に感動を与えるためにするのだ。
それをきっと忘れていた。だから今まで失敗していた。
「……私も、誰かに感動をあげることって出来るかな……」
誰かに問い掛けるわけでもなく、独り言を部屋に響かせる。
忘れていた懐かしき思い。懐かしき理由。懐かしき願い。
やっと思い出せた。私の大事な思い出を。私の大事な始まりを。
「……うん、私も見に来てくれてる人達を感動させたい」
私は最後にそう呟くと、手に持っていたパンフレットを机に置き、代わりに台本を手に取った。
今からでも遅くない。今、私に出来ることをやろう。
次の舞台のために、私達の演技を見に来てくれる人達のために。
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観客席にはたくさんの人。
舞台には私よりも出番が早くやってきた部員が演技をしていた。
今日のためにみんな努力してきた。今まさに、その成果を見せている。
私も負けてはいられない。
衣装をしっかりと身に纏い、着心地を整える。
演劇用に作った張りぼての剣を携え、最後に帽子を被る。
ステージの袖で、自分の出番を待つ。
今日のためにしてきた努力は、きっとステージの上で私を輝かせてくれる。
私じゃない私になったその時、きっと私は輝いている。
そしてそんな私を見て、一人でも人を感動させてあげたい。
それが私の誇り、気持ち、願い。
「夏美、出番だよ!」
小声で部長が私に声をかける。
私はニコリと笑って一度頷き、一歩足を踏み出した。
さぁ行こう。ステージの上へ。輝く自分になるために。
誰かに感動の二文字を与えに。